岐阜城

別名 稲葉山城  付近住所 岐阜県岐阜市金華山天守閣18 現在 金華山
2008/9/15 碑・案内板・天守閣アリ 日本城郭大系


二階堂行政
佐藤朝光
伊賀光宗
稲葉光資
二階堂行藤
斎藤利永
斎藤妙椿
長井新左衛門尉
斎藤道三
斎藤義龍
斎藤龍興
(竹中重治)
織田信長
織田信忠
織田信孝
池田元助
池田輝政
豊臣秀勝
織田秀信
 鎌倉時代の建仁元年(1201)、幕府の執事二階堂山城守行政が軍事目的のためにここに初めて砦を築いたと伝えられているが、稲葉山城として日本史に大きく登場してくるのは斎藤道三以後のことです。
 斎藤道三は天文8年(1539)2月に稲葉山城を修築して入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となりました。
 永禄10年(1567)織田信長は斎藤龍興と戦って稲葉山城を落し、9月新城主として入城しました。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、楽市場を保護し、「天下布武」の朱印を用いるなど天下統一の本拠地としました。永禄12年に宣教師ルイス・フロイスが岐阜城を訪れ、この壮麗さに驚いたことを書簡に記して本国ポルトガルへ送り、西洋にまで岐阜城のことが知られるようになりました。
 その後、織田信忠・神戸信孝・池田元助・池田輝政・豊臣秀勝が岐阜城主となりましたが、慶長5年(1600)8月23日岐阜城主織田秀信は西軍の豊臣方に味方して東軍の徳川方と戦い、福島正則・池田輝政に攻められて開城しました。慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣・櫓などは取り壊されて加納城に移築され、江戸時代には金華山頂に天守閣が建てられることはありませんでした。
 明治43年(1910)木造の模擬城が建てられましたが、昭和18年(1943)焼失しました。その後、観光岐阜のシンボルとして、また安土桃山時代の華麗な城郭を再現したいという岐阜市民の熱意と浄財により昭和31年に現在の三層四階の天守閣を再建しました。
 平成9年(1997)大改修工事を行い、織田信長の頃の壮麗な天守閣の姿を再現しました。

天下第一の門
 永禄10年9月初日、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。稲葉山の城郭を再建するとともに城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。また信長は、「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城をなった。
 信長の大志を讃えてここに冠木門を建て、その偉業を伝える。

岐阜城の歴史(一)
 二階堂行政〜長井新左衛門尉
 13世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉に住み、氏を称えました。
 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。
 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。
 戦国時代の動乱の中で、土岐・斎藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斎藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は斎藤道三の父親といわれ、大永から享禄年間(1521〜32)の史料に、名前がしばしばでてきます。

岐阜城の歴史(二) 斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)
 斎藤道三が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。
 しかし、最近、発見された南近江の大名六角承禎書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事蹟ということがわかりました。
 道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲通と七曲通に住人を集めて城下町をつくりました。
 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。
 天文23年(1554)、道三は突然隠退して家督を子の新九郎利尚(義龍)に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治2年(1556)の戦いで討死しました。
 義龍は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか6年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍興)が継ぎました。
 しかし、斎藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄7年(1564)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。
 その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興の手に戻りましたが、この事件によって斎藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄10年(1567)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。

岐阜城の歴史(三) 織田氏三代(信長・信忠・秀信)
 永禄10年(永禄7年ともいう)、斎藤龍興を稲葉山城から追放した信長は、井之口を「岐阜」と改称し、「麟」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用しはじめ、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町づくりに着手しました。
 稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行ない、斎藤氏の居館を壊して新しい館の建設を始めます。また城下町の繁栄を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城2年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、町の様子を「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと、本国へ報告しています。
 天正3年(1575)、信長は岐阜城を長男の信忠に譲り、翌4年に安土城を築いて、ここに移りました。天下統一へ大きな前進をしたのですが、天象10年(1582)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、信忠とともに京都で討死しました。
 その後、文禄元年(1592)、豊臣秀吉は信長の孫秀信を岐阜城主に封じました。しかし、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で、秀信は家臣の反対を押しきって西軍に味方したため、東軍に攻められて8月23日落城、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で死去しました。